1988 - 93

1988

再出発

“仕切り直し”と表現した方がしっくりくるかもしれない。
前年にアルバム「FLASH IN JAPAN」をアメリカのみで発売したことで一区切りとした矢沢。

大国で得たものは計り知れない反面、焦りも感じていた。
マーケティングの主戦場を再び日本に戻すことによって、これまでとは一味違ったYAZAWAを魅せてゆくためにはどうすれば良いのか…

この年からレコード会社を東芝EMIに移した。
条件面はアメリカでの進出も含めたワーナー・パイオニアとの契約も良かったが、

“音楽の世界は金だけでは割り切れないものがある”

どんなにこちら側の対価が大きくとも、より多くの人々にYAZAWAの音楽が届かなくては意味がない。
まずは世間にとっての“雲の上”の存在となってしまった矢沢永吉のイメージを変える必要がある。
改めてキャロル結成時やソロデビュー時のように、自分の足で各地の現場を回っていこうと決めた。

そして矢沢はレコーディングの地をロンドンへと移してニューアルバム制作に臨む。
今までとは違った音を生み出したいという拘りを追求する為には不可欠な判断だったのかもしれない。
理屈を超えるストレートなロックというイメージを掲げた“不良性”を出すことが今回のテーマとなった。
若い頃の勢いに乗った“不良”ではなく、矢沢永吉の現在39歳ならではの大人の“あぶなさ”を醸し出すような色気を放つ曲をずらりと並べる。
そのあぶない色気を生み出してひときわ存在感を放っているのが、数々の楽曲の中で取り入れられているシンセサイザーの音だ。初めて矢沢とタッグを組みアレンジとプログラミング、キーボード奏者としても参加したジョージマクファーレンがこのアルバムのキャラクターを作る屋台骨となった。

実は、このアルバムの中で矢沢が特に気に入っている楽曲「ニューグランドホテル」はロンドンに向かう以前に、夢の中でメロディーが浮かんできたという。
「夢を見ながらわかってんの。曲を口ずさんで、いい曲だなって思ってるわけ。それで早く起きなきゃ、起きてカセットを探しているうちに、いつもは忘れちゃうの。それがね、今回だけはちゃんと書きとめた曲がある。これは絶対に使おうってロンドンに行く前から決めてて、向こうでサビとかを完成させたんだけど、イギリス人のスタッフ全員がいい曲だって言ってくれたよ。」

7月21日、東芝EMI移籍第一弾オリジナルアルバム「共犯者」が発売決定となる。

前述の決意を実現すべく、矢沢は大小関わらず様々な雑誌インタビューから地方のラジオ局まで全て回った。
地方の放送局やラジオ局からすると「来るはずのない人が来た!」と大騒ぎになった。
それまで矢沢は一貫してプロモーション活動を積極的に行うことはせずにレコーディングとライヴ活動に専念していたが、こうして“よろしくお願いします”と挨拶しながらこまめに全国を回ることで、再び日本にミュージシャン“矢沢永吉”という芽がしっかり出始める。この試みは大成功であった。

9月からスタートした全国ツアー「It's Only YAZAWA」でもこの姿勢を貫いた。
70本を超える大規模ツアーで全国を走り回る4台のトラック、通称“トランポ(TRANSPORT)”の荷台にツアータイトルと「共犯者」のジャケットデザインを施して、会場のみならずその道中までをも目を惹きつけるようなアイデアを導入した。
さらには9月23日、浜松市民会館でのライヴを終えた後、「ニュースステーション」に名古屋テレビから中継で生出演するという今まででは考えられないサプライズも行った。

こうした“種まき”を続けることで、この年最後の大舞台となる自身初の東京ドーム公演への期待が一気に膨らんでいくこととなる。
かつて東京ドームの隣にあった後楽園スタジアムで矢沢は4万人の大観衆を熱狂の海に変えた。
そしてそれは、あの日から10年経った今もなお変わらぬ熱気を帯びたまま矢沢と共に生きている。
さらに時代は進歩し、来場できなかった人々も衛星中継によってリアルタイムで東京ドーム公演の興奮をテレビで体感できるようになった。

東京ドーム前日、矢沢は風邪気味で唸っていたが当日はしっかり体調を戻してきた。
彼は常々、巨大な会場でのライヴを“お祭り”と答える。どれだけオーディエンスを楽しませられるか…
簡単そうに話してはいるが、今までのキャリアがあるからこその余裕なのだろう。

シンプルな黒いスーツをきっちりと着こなして舞台袖へスタンバイした矢沢。
そしてオープニング「共犯者」の妖艶なギターリフと音玉の爆発音が鳴り響くと、シンセサイザーの音色に合わせて矢沢は5万人が待つ空間へと向かっていった。

1989

名曲との邂逅

24枚目のシングル「SOMEBODY'S NIGHT」は富士フィルムのビデオテープ「AXIA」CMイメージソングに抜擢された。

この「SOMEBODY'S NIGHT」が収録された17thアルバム「情事」のレコーディングは、昨年と同じくロンドンで行ったが、これが思うように上手くいかなかった。
楽器の音を一つ録音するにしても、プロデューサーと折り合いがつかず何度も演奏を止めて話し合う。
ボーカル入れでは普段通りに緊張感やテンションを高めようとするが、どうしても矢沢のイメージするようなサウンドに持っていけないために気持ちも落ちてゆく…

「オーバーダビングにしても、プロデューサーの出すアイデアはクソばっか。そうなっちゃうと、心ここにあらずって感じで、どんどんブルーになっていっちゃう。一応ミックスダウン聴いたけど、音も良くないしボーカルも死んでた。これはやり直すしかないと思って日本のスタッフに電話して、スタジオとミュージシャン押さえさせたよ。」

居ても立っても居られない矢沢は日本に帰ってからすぐにボーカル、楽器、何から何までほぼ全て差し替えた。そして肝心のミックス作業も一番信頼しているエンジニアに任せるためにマスターテープを持って飛行機に飛び乗り、L.A.のサンセット・スタジオに着くやいなやミックスダウンを開始する。
1週間で10曲全てのミックスダウンを終えるために毎日が夜中までの作業、一つ一つの音を納得のいくまでエンジニアと共に練り上げて、日本に帰る日も徹夜明けだった。
いわばアルバム2枚を3ヶ月程度で作るような作業となり、それだけの金額を費やすこととなるが、それでも矢沢は自分が追い求める“音”を作り上げることを選んだ。

アルバムに針を落とすと、落雷の音を幕開けに聞こえてくる鍵盤とエレキギターのリフ。それに雷雲のように低く唸るベース音が重なる。 今回のアルバムの作詞は数多くのヒット曲を手がけている売野雅勇を初めて起用した。
「特に今回意識したのが詞だね。本当に売野と矢沢のメロディーが結び付いたらどういう物が出来上がるんだろうという事を、お互いにテーマにしてやっているから、何回も書き直しするし、ディスカッションもする。おもしろいのは、歌入れしてもすごい歌いにくい。僕も17年ぐらい歌手やってるけど、歌いにくかった方の部類だね。なんでだろうと思ったんだけど、すごく詞が深いっていうか個性があるんだね。だからメロディーに乗っけるのがムズカシイみたいな。でも、ハマった時はすごいもんが出来るよ。」

長きに渡って矢沢永吉の楽曲を彩る名作詞家がまた一人誕生した。

1990

YYAZAWAの“ROCK'N'ROLL”

今年の年末辺りで矢沢永吉オフィシャルショップ『東京ナイト』が完成予定だ。
それまで恵比寿にあった『P.M.9』はCDとグッズを販売するのみの狭い店舗だったが、この新店舗が完成すればBARカウンターも併設された、まさにファンのための憩いのスペースとなる。

矢沢とファンとの関係性は他のアーティストとは一線を画している。 というのも矢沢の音楽や生きざまを純粋に心の底から応援してくれる人々もいる反面、“永ちゃん、俺をみてくれ!” “自分が楽しくなれれば別にどうだっていい”という考えの者もいる。
そして、そんな人間達が私設応援団体を作って周りを威圧するから始末が悪い。
11月1日 川口からスタートした「Rock'n'Roll Army '90」ツアー中には数々の客同士のトラブルが矢沢の耳に入ってくる。
ついにはファンクラブ会報と共に警告の号外が発行されるまでに発展した。 その号外には切実な矢沢の言葉が連なっている。
「“昔は恐くてコンサートを見に行けなかったけど、最近は行けるようになりました。”っていう内容の手紙をもらったりして嬉しかったものよ。それが、俺の耳が届かないところでは、実はその辺のチンピラと変わらんような集団が出来てから、割り込んだだ何だかんだと聞くとさ“お前ら、まだその辺のレベルにいるのか。”ってことで、正直言って怒りすら覚えるね。コンサートというものは、本来楽しいもんなんだよ。去年のドームでも言ったじゃん“いい酒飲んで帰れヨー”ってさ、これがコンサートだよ。」

とはいえ悪いニュースだけではない。5月に発売した27枚目のニューシングル「PURE GOLD」は「時間よ止まれ」以来のオリコン1位を獲得し、ミュージックビデオのアニメーションは『ルパン3世』の作者でお馴染みのモンキー・パンチが制作した。
“ホ-ムにNight Train財産はトランクとギタ-だけ…”かつて矢沢が大きな夢を抱き広島から東京を目指した時とシンクロする歌詞に、L.A.の乾いたサウンドが重なることで一つの映画を見ているような錯覚に陥るほど、完成された名曲が出来上がった。
矢沢自身もこの「PURE GOLD」が収録された18thアルバム「永吉」に関してこう語っている。
「今回11曲作ってみてね、嬉しかったよ。よく作れたと思うね。ホントやっとここへ来たんだなと思った。すごく矢沢らしいなと。本当の意味での“矢沢の音楽”が確認できたっていうか。」

このアルバムのフィーリングをそのまま残すが如く、今回のツアーはリズム隊からコーラス隊、ホーン隊まで全員外国人メンバー編成で全国各地を回った。
バチッと決めたリーゼント姿の矢沢にツアータイトル通りの“ロックンロール・アーミー”が居並ぶ様は他の日本人では絶対に真似ができないほどに圧巻であった。
最後は4日間連続での日本武道館公演をツアーの締めとしたが、3年ぶりにこの日本武道館を選んだ理由もライヴへの拘りがあったからだ。
“ショー”と“お祭り”は観せ方が全く違う。日本武道館は“ショー”とするならば、一昨年から2年連続でライヴを行った東京ドームは“お祭り”だと矢沢は言った。
「何年かに1回は巨大な会場でライヴして皆んなでお祭り騒ぎするのは良いけど、一体感だったり“ショー”として観せたり、最高のサウンドを聴かせるという点では1万人前後のキャパがいいよね。」
何より日本武道館は、もはや矢沢永吉のホームグラウンドと言ってもいいくらいファンにとっては馴染みのある会場だ。
このホームに帰ってきて最高のメンバーでライヴをすることが、矢沢にとって今年の目標の一つでもあった。

そして12月19日の千秋楽を終えた後、なんと矢沢はとっておきのサプライズを考えていた。
東京の中野に新オープンした『東京ナイト』では、ライヴ終了後に来店したファンで大賑わいとなっていた。そこへ突然、ジョン・マクフィーをはじめとするツアーメンバーが来店し、それに続いて矢沢が登場するという思いもよらぬ展開に、店内は大パニックになると同時に盛大に盛り上がった。
さらには矢沢を含めたメンバー全員がその場で「SOMEBODY'S NIGHT」を演奏するという、最高のクリスマスプレゼントを披露。
いつの時代でも矢沢は子供のような心を持って皆を驚かせてくれることが感じられる一夜となった。

1991

コンサート制作

4年ほど前に、矢沢は妻に言われたことがあった。
横浜でのライヴを終えた後「言いたくはないけど、お金をかけていないというのがモロにわかるわよ」
それは暗に、照明や音響などの演出クオリティが低いということだった。
ツアーを取りまとめているプロモーターだって好きでそうしているわけではない。
興行としてコンサートを成り立たせるためにはメンバーやスタッフへの報酬の他、会場費からアルバイト代まで様々な経費を計算しつつ、収益を出さなくてはいけない。
生々しい話ではあるが、コンサートというのは莫大な金が出し入れしていく非常に難しい商売でもある。

その中で客を最高の気分にさせて満足のいくステージを行うにはどうしたら良いのか。
今のシステムを変えるしかない。矢沢は長らく手を結んでいた大手プロモーターとの契約を切った。
自分の会社でコンサート制作を行なって、矢沢の思ったようにやって、いいステージを作ろう。
それが矢沢永吉の“アーティストとしてのプライド”でもあった。
ところがいざ始めてみると音響や照明にいくら掛かるのか、会場のキャパに対してどれだけのスタッフを雇えば良いのか、入場料がこれで、これだけの動員があって…全てが手探りの状態だった。
それでも、他のプロモーターのノウハウを少しでも得ようと隅々まで調べていった。

今年68本行った「BIG BEAT」ツアーはどの会場も超満だった。
特に横浜スタジアムではオープニングで大勢のエンジンを吹かしたバイク集団がステージの上に駆けあがって、矢沢を迎え入れるというド派手な演出を行い、武道館で演じた「安物の時計」の時には100人のストリングスを入れて壮大な音のアレンジを施した。
8月21日の真駒内オープンスタジアムは朝から土砂降りの雨だったが、開演直前でほとんど止んでいた。この奇跡とも言える出来事に終止会場のボルテージは上がり続け、終演した後も興奮冷めやらぬ観客のために予定していなかった2回目のアンコールに答えた。
最高に充実した日々に手応えを感じていた矢沢だったが、ツアー終盤に差し掛かっていたある日、矢沢と一緒にラーメン屋へ入っていたマネージャーが青い顔をして口を開いた。

「ボス、ちょっと報告があるんです。」
「なんだ?」
「ツアーの動員はほとんど満タンで、今回の収支を全部計算すると…」
「おお、どのくらい利益が出た?」
「ゼロです。というかはっきり言うとマイナスです。」

蓋を開けてみると何十万人の動員数があって、お客もみんな満足している今年のツアーは赤字となっていた。

「なんでこうなったか分かってるか?」
「分かってます。思い当たることがあります。」
「そうか。初年度はしょうがない、ま、いいからラーメン食おうよ。」

普通だったら、これに懲りて前にお世話になっていたプロモーターに頭を下げて元通りになるのだろう。
しかし矢沢は逆に気持ちが燃え上がっていた。なぜもっと早く自分の会社で制作をしなかったのか。
来年も再来年も必ず自社で制作を行って少しずつ経済的に成り立つようにすると心に決めた。

そして数年後には最も資格を取得することが難しい難しいとされる、外国人のミュージシャンを招聘するライセンスを取ることができた。これでいつでも海外のどんな大物ミュージシャンだろうと呼ぶことができる会社となる。

「大手プロモーターだって伊達に昨日今日できたわけじゃない。ウチなんて素人が手を出しているんだから最初は赤字にだってなるよね。でもさ、リスクを負ってでも新しい扉を開けなければ今の矢沢の会社は無いよね。」

1992

遊び心

テレビ画面に映っているのは慌ただしくパンを頬張りながら、走って会社へ向かうサラリーマンの男。
どことなく気弱そうな哀愁漂うこの男の姿に、お茶の間の人々は大きな衝撃を受けた。

「ボス、やめておいた方が良いと思います。」「イメージに合いません!」 矢沢のもとに『サントリー缶コーヒーBOSS』CM出演オファーがあった時、事務所の人間の殆どが難色を示していた中、矢沢だけが「面白いじゃない、やろうよ」と鶴の一声。
殆どテレビに姿を見せないロックシンガーの矢沢永吉が、冴えない普通のサラリーマンに扮するという強烈なギャップを出したことで一気に話題となった。
このCM出演によって矢沢永吉というアーティストが身近な存在になっただけでなく、CMのテーマ曲となっている彼の音楽にも興味を持つようになる。

“遊び心” どんなことでも面白いと思えるかどうかが大事だという。
「反対するヤツもいるってわかってたけど、余裕持って遊びたいじゃない。わかる?あんなことできるのも最高のアルバム作って、最高のライヴやってる自信があるから。アルバムもライヴもクソなら“オマエええ加減にせぇよ!”って話になるじゃない。ところがライヴに行けば最高のステージやってて、家に帰ってTV観たら“缶コーヒーのBOSSよろしく”ってやってる。もう月光仮面よ、このギャップ。それも楽しいじゃん。」

新しいものや皆が驚くものを作り出すにはこの“遊び心”があるからこそだ。 今回発売したアルバム「Anytime Woman」も11曲のラインナップのうち、6曲はロンドンでレコーディングを行い(場所はビートルズのアルバムでもお馴染みのアビーロード・スタジオ)、残りの5曲はロサンゼルスで進めた。半分曲を作り終えた段階で一旦期間を設けることにより、客観的にその6曲を聴くことができる。それによって次々と新しいアイデアがたくさん湧いてくる。そしてマンネリ化しないように、良い意味でファンを裏切るような曲を作ることができる。
「最高!最高!だけじゃなくて、非難や反対を受けることも注目を受けている証拠だから、そういった意味じゃあ“裏切る作曲”という行為も良いことなんだよね。」

夏に行った「Anytime Woman」ツアーを終えると、矢沢は北海道の千歳空港にいた。
アメリカでのレコーディング期間中、ロンドンへ向かう際に見ていたカタログに写るバイクを即購入。今回はこのバイクで息抜きを兼ねたツーリングを行うことが目的だった。
生憎、摩周湖は霧で見えなかったが、山々に囲まれた大自然を疾走し時には海辺を走りながらツアーやレコーディング、都会の喧噪から一切離れて、ただの一人の男となる。
“遊び心”を保つためには、常に「オンとオフ」を持つ事が大切なのだ。

1993

バラード

「東京」「心花(ときめき)よ」「黄昏に捨てて」…21作目のアルバム「HEART」に収録されているバラードの面々だ。
矢沢は曲作りに対して“やさしさ”や“愛しさ”、“思いやり”というものを追求していくようになる。
洗練された“大人な都会”を感じるバラードや、繊細な心の動きを丁寧に表現しているバラード、まるで隣に寄り添っているかのように思わせる暖かな曲まで、さまざまな表情や感情を音で語っている。

“ロック=爆音でノリの良い曲”なんていう時代は終わっている。もし矢沢がそれだけしかできないならとっくに消えているだろう。
矢沢永吉の真骨頂はこの“バラード”にあると言っても過言ではない。大勢の人々を最高にぶっ飛ばすほどの歌を歌ったかと思えば、シルクのように柔らかく美しいメロディーを作ることもできる。
才能と言ってしまえばそれまでだが、今までの20年を超えるキャリアの中で多くの経験を積み重ねてきたことが楽曲の説得力を生んでいる。
「やさしさが増えてきた。負けず嫌いとか基本的なものは変わらない。だからこういうメロディを書くのよ。やさしくなるにはエネルギーがいる。辛いもんがある。一歩間違うと傷つく。それでもやさしさが増えてる方がいい。」

『サントリー缶コーヒーBOSS』のCM効果も相まって、「HEART」はオリコンチャート週間1位を獲得する。
かつて、ロックは若者のみの青春であり文化であった。しかし矢沢はこの“ロック”というものを自分なりに昇華させて、ついには唯一無二である『YAZAWAのメロディー』を作り上げることに成功した。
固定概念にとらわれずに、常に自分らしく自然体に。それがいつしか自分自身の余裕と自信につながっている。40歳を超えた今、自分の感覚だけを信じて心のままにメロディを紡いでいくことで、本物の“大人”なアルバムが完成した。

デビューから21年で200以上の曲を作っているが、矢沢は他人の曲を聴いたり研究することは一切しない。ラジオから流れる曲を聴いて「アッ、この曲いい」と思っても、歌っているシンガーもタイトルも知らない。その曲がポール・マッカートニーであろうと、ギルバート・オサリバンであろうと矢沢にとってはどうでもいいことだった。メロディが好き、ただそれだけだ。 音楽を生業にする者であれば、それは異常なことなのかもしれないが「生きる“あがき”が曲を作らせてきた」と言い切る矢沢からすれば普通のことだった。
そして過去に固執しない姿勢だからこそ、ライヴでも考えられないような大胆なアレンジを施すことができる。
「バイ・バイ・サンキュー・ガール」ではミュージカルさながらのLIVEアレンジを披露し、ライヴ前の楽屋では「黒く塗りつぶせ」の新しいコーラスアレンジをメンバー達と一緒に歌いながら、細かい箇所までチェックしていく。

1万人を超える大観衆を沸かせることも、泣かせることもたった一人の男しだい。
これを一番楽しんでいるのは矢沢自身なのかもしれない。

50 YEARS HISTORY

1988-93

「大規模会場でのコンサート」