去年の秋、10月31日の横浜文化体育館ライヴで1つの矢沢の時代が終わったことを自身は感じていた。ソロデビューから5年間、求めるものは全て手にしてきた。
コンサートのチケットはすぐにソールドアウト、レコードを出せば絶対に売れる。そんな恵まれた環境が矢沢にとっては退屈でしかなかった。そして目標を失ってしまうことが何より辛かった。
選択する道は2つ、もう歌手なんてやめてしまうか、もっと大きな目標を見つけるか。
そんな折、レコード会社移籍直後にワーナー・パイオニアから打診されていたアメリカ進出の話を本気で考えるようになった。
しかしアメリカへ打って出るには、今まで築き上げてきたものや周りの環境を全て捨てなければいけない…その覚悟が必要だった。
矢沢はソロ活動を常に支え続けていた裏方スタッフやバックバンドメンバーなど、総勢20人余りの「矢沢ファミリー」と自ら名付けた集団を解散させることを決意する。
そしてツアーが終わって年が明ける頃、矢沢はマネージャーも側につけずにアメリカへ単身渡米した。
そこからは苦闘の日々だった。アメリカでの生活は初めてでは無かったが、今までは大勢のスタッフを引き連れて、仕事が終わればホテルで過ごしていた。
しかし、これからしばらくはL.A.のオークウッドにある400ドルの安アパートを借りて自炊生活をする。
それだけではない。現地での英語教室で細かい発音からレッスンを受けて、食事やショッピング、あらゆる日常生活の中でネイティブな英語を体に染み込ませていかなければならなかった。
アメリカの環境に馴染むための訓練を行いながら、新しいアルバム制作に協力してくれるミュージシャンを募っていく。
プロデュースを行うボビー・ラカインドを中心にGuitar ジョン・マクフィー、ポール・バレア、Bass ボビー・グローブ、ケニー・グラッドニー、Drums キース・ヌードセン、Keyboard マーク・ジョーダン、Sax コーネリアス・バンパス等、アメリカで大成功を収めている超一流ミュージシャンが矢沢の楽曲制作の協力者となっていた。
通訳をつけずに、身振り手振りでエンジニアやミュージシャン達とコミュニケーションを取って作業を進めるその姿は、つい最近まで後楽園スタジアムを満杯にして、モーセの海割りの如く並ぶ人間の間を闊歩する面影など微塵も無かった。
そんな矢沢の本気と情熱をボビー・ラカインドは正面から受け止めてくれた。歌入れの時も一つの単語に2時間かけたり、自分が今まで信じて作り上げてきたノウハウを完全否定されたりすることも日常茶飯事だった。その度に矢沢は「クソッタレ!」と思うことも、時には大喧嘩することもあったが、それでも“相手が世界的なミュージシャンであろうと対等にやるんだ”という信念を持って彼らと向き合うことで確かな絆が生まれていることを実感していた。
アメリカに滞在して3ヶ月経つ頃には言葉や生活にもだいぶ慣れてきていた。
しっかりと練り上げたアルバムも完成を間近に控えつつ、いよいよアメリカでデビューするためのレコード会社を探すこととなる。アメリカは日本のマーケティングと違い、アルバムが出来上がってからレコード契約を勝ち取るために“営業”を行わなくてはならない。
それはすなわち、アルバム制作に関わる経費は自分自身がコントロールするという意味でもある。
アルバムを作ったは良いものの、レコード会社と契約を結べなければ何にもならない…
そんな不安も杞憂に終わり、無事にアメリカのレコード会社「エレクトラ・アサイラム」と契約を結ぶに至った。
そして9月25日、全曲英詞のオリジナル7thアルバム「YAZAWA」が全世界で発売されることとなった。
ロックの発祥の地アメリカで、たった一人の日本人が曲作りを始め、レコード契約などを全て現地で行ったのは矢沢が初めてであった。
そうしたアメリカでの刺激的な生活は、日本の敷かれたレールに乗ったいた日々や、マスコミとのいざこざでウンザリしていた矢沢の心に再び火を灯した。
「俺はこれからも自分のためだけに歌うよ。自分のためだけにアレンジしてプロデュースして、レコード作る。自分のためだけに汗流して、汗が出ないと思ったら、自分のためにやめる。それが一番いい。それが矢沢なんだ。」