1981

ファミリー解散と海の向こうの連中

去年の秋、10月31日の横浜文化体育館ライヴで1つの矢沢の時代が終わったことを自身は感じていた。ソロデビューから5年間、求めるものは全て手にしてきた。
コンサートのチケットはすぐにソールドアウト、レコードを出せば絶対に売れる。そんな恵まれた環境が矢沢にとっては退屈でしかなかった。そして目標を失ってしまうことが何より辛かった。
選択する道は2つ、もう歌手なんてやめてしまうか、もっと大きな目標を見つけるか。
そんな折、レコード会社移籍直後にワーナー・パイオニアから打診されていたアメリカ進出の話を本気で考えるようになった。
しかしアメリカへ打って出るには、今まで築き上げてきたものや周りの環境を全て捨てなければいけない…その覚悟が必要だった。
矢沢はソロ活動を常に支え続けていた裏方スタッフやバックバンドメンバーなど、総勢20人余りの「矢沢ファミリー」と自ら名付けた集団を解散させることを決意する。
そしてツアーが終わって年が明ける頃、矢沢はマネージャーも側につけずにアメリカへ単身渡米した。

そこからは苦闘の日々だった。アメリカでの生活は初めてでは無かったが、今までは大勢のスタッフを引き連れて、仕事が終わればホテルで過ごしていた。
しかし、これからしばらくはL.A.のオークウッドにある400ドルの安アパートを借りて自炊生活をする。
それだけではない。現地での英語教室で細かい発音からレッスンを受けて、食事やショッピング、あらゆる日常生活の中でネイティブな英語を体に染み込ませていかなければならなかった。

アメリカの環境に馴染むための訓練を行いながら、新しいアルバム制作に協力してくれるミュージシャンを募っていく。
プロデュースを行うボビー・ラカインドを中心にGuitar ジョン・マクフィー、ポール・バレア、Bass ボビー・グローブ、ケニー・グラッドニー、Drums キース・ヌードセン、Keyboard マーク・ジョーダン、Sax コーネリアス・バンパス等、アメリカで大成功を収めている超一流ミュージシャンが矢沢の楽曲制作の協力者となっていた。
通訳をつけずに、身振り手振りでエンジニアやミュージシャン達とコミュニケーションを取って作業を進めるその姿は、つい最近まで後楽園スタジアムを満杯にして、モーセの海割りの如く並ぶ人間の間を闊歩する面影など微塵も無かった。
そんな矢沢の本気と情熱をボビー・ラカインドは正面から受け止めてくれた。歌入れの時も一つの単語に2時間かけたり、自分が今まで信じて作り上げてきたノウハウを完全否定されたりすることも日常茶飯事だった。その度に矢沢は「クソッタレ!」と思うことも、時には大喧嘩することもあったが、それでも“相手が世界的なミュージシャンであろうと対等にやるんだ”という信念を持って彼らと向き合うことで確かな絆が生まれていることを実感していた。
アメリカに滞在して3ヶ月経つ頃には言葉や生活にもだいぶ慣れてきていた。
しっかりと練り上げたアルバムも完成を間近に控えつつ、いよいよアメリカでデビューするためのレコード会社を探すこととなる。アメリカは日本のマーケティングと違い、アルバムが出来上がってからレコード契約を勝ち取るために“営業”を行わなくてはならない。
それはすなわち、アルバム制作に関わる経費は自分自身がコントロールするという意味でもある。
アルバムを作ったは良いものの、レコード会社と契約を結べなければ何にもならない…
そんな不安も杞憂に終わり、無事にアメリカのレコード会社「エレクトラ・アサイラム」と契約を結ぶに至った。
そして9月25日、全曲英詞のオリジナル7thアルバム「YAZAWA」が全世界で発売されることとなった。
ロックの発祥の地アメリカで、たった一人の日本人が曲作りを始め、レコード契約などを全て現地で行ったのは矢沢が初めてであった。

そうしたアメリカでの刺激的な生活は、日本の敷かれたレールに乗ったいた日々や、マスコミとのいざこざでウンザリしていた矢沢の心に再び火を灯した。

「俺はこれからも自分のためだけに歌うよ。自分のためだけにアレンジしてプロデュースして、レコード作る。自分のためだけに汗流して、汗が出ないと思ったら、自分のためにやめる。それが一番いい。それが矢沢なんだ。」

1982

「音楽だけやってるんじゃダメ」

新たに大きな目標と生きる場所を見つけたことで、矢沢はさらに勢いを増した。

「YAZAWA」が完成した後、ツアーのために一度は日本に戻るも、年が明ける前にはアメリカに帰っていた。留まっている時間なんて一切ない、すぐに新たなアルバムの制作に取り掛かりたい。
去年の10月には、国内アルバム「RISING SUN」を発売していたが、今度のアルバム作りは再びアメリカで行い、プロデュースも自らが進行すると決めていた。
言葉の壁やレコーディングに対する想いのギャップなどに悩まされることはもう無い。
スタッフやミュージシャンは引き続き、ジョン・マクフィーをはじめとするThe Doobie BrothersやLittle Featのメンバー達が参加した。
さらにはTOTOのメンバーである Guitarスティーヴ・ルカサーやDrums ジェフ・ポーカロも加わり、盤石な体制で9thアルバム制作に臨むことができた。

「WITHOUT YOU」・「LAHAINA」・「YES MY LOVE」… ちあき哲也の切なくも温かみのあるアダルトな歌詞と、タイトで乾いたL.A.サウンドが絶妙に混ざり合って耳に心地よく響いてくる…
多くの化学融合の末に生まれたこのアルバム「P.M.9」は紛うことなき名盤となる。

この時期から、矢沢永吉のマーケティングがまた一つ変わっていった。 『コカ・コーラ』のCMイメージ・ソングとして「YES MY LOVE」が決まると、矢沢自身もCM出演した。
「LAHAINA」も「時間よ止まれ」以来となる資生堂CMソングに採用され、ギラギラしたロックンローラのイメージから一転、艶のある大人な雰囲気を醸し出すようになる。
海を渡ったことで矢沢永吉は本当の意味で「ROCK」というものを深く理解し、昇華させていくのであった。
この国内で発売したアルバムはオリコンチャートでも1位となり、とりわけ「YES MY LOVE」は矢沢を代表する1曲として、今も多くのファンから愛されている。

そんなある日、地方のプロモーターから1通の手紙が矢沢の手元に届いた。
その内容は、「矢沢さん、おたくの事務所の圧力で他の地方の興行師も苦しい思いをしている。私は矢沢永吉さんがそんな事をする方ではないと信じています。」と、興行(ライヴ)をするたびに相当な金額の契約金を要求されていたと書かれている。
当然、矢沢の知る由もない出来事であった。 契約や金銭周りのことはマネージャーや経理に一任させていた為、にわかに信じがたい話ではあったが、当時の経理担当が付けていたノートを見つけた時、全て確信に変わった。
マネージャーとイベントメーカーの人間が手を組んで倍以上の興行契約を結び、中間搾取していたのだ。
この裏切りに、例えようもない怒りと悲しみが矢沢を襲ってきた。 ソロデビューからずっと一緒に夢を追いかけて、信じて走り続けていた仲間だと思っていた…
矢沢は電話番の女性事務員を一人新たに雇い、事務所のスタッフを全員解雇させる。

自分を取り巻いている“芸能界”という社会を打ち壊すには、音楽だけやっているだけではダメだ。
事務所の運営や仕組みなどは自分自身で学んで、一人でもやっていけるくらいでなくてはいけない。
矢沢はひたすらに戦うしか方法は無かった。

そんな矢沢の心を救ってくれたのが、アメリカで共に曲を作ったミュージシャン達だった。
日本でのツアーを計画していた矢先、矢沢から頼んだわけではなく「日本でやるならオレ達も連れて行けよ。ヤザワがOKなら、オレ達いつでも行くぜ」と言ってくれた。
それは皆、矢沢を一人の同格のミュージシャンとして認めていただけではなく、時にはL.A.で年越しそばを一緒に食べたり、ハワイでのThe Doobie Brothersのライヴでいきなり飛び入り参加させられたりなど、ビジネスを超えた絆があったからこそだった。

日本に来るメンバー達とのギャラ交渉、それぞれの飛行機のチケット手配、ワーキングビザ申請まで矢沢一人で行った。
そして、9月17日 神戸国際会館を皮切りに、全国11公演「P.M.9」ツアーがスタートした。
7月、8月に予定していたツアースケジュールを中止して仕切り直したこのツアーは、日本のスーパースター「矢沢永吉」ではなく、世界で活躍している外国人ミュージシャンを揃えて日本へ凱旋してきた「EIKICHI YAZAWA」の姿を観せるためのイベントでもあった。

ジョン・マクフィー(Guitar)
リッチー・ジットー(Guitar)
デニス・ビルフィールド(Bass)
キース・ヌードセン(Drums)
マーク・ジョーダン(Keyboard)
ボビー・ラカインド(Percussion)

とてもシンプルな編成のバンドだが、どんなに大手のイベンターでもこれほどまでに豪華なメンバーを集めることは到底叶わない。
矢沢がアメリカという舞台で、日本の誰もなし得ていない大義を実現したことを確かに証明した。

ツアーを終えると既に次の算段は打ってあった。海外第2弾のアルバム発売だ。

1983

YAZAWA CLUB

全米で発売するためのアルバムは、前作「P.M.9」制作と同時期にレコーディングしていた。 去年の12月に日本では先行発売していたが、今回のアルバムは矢沢も確かな手応えを感じていた。
10thアルバム「YAZAWA It's Just Rock'n Roll」は「P.M.9」ツアーと同じく、「ROCKIN' MY HEART」からスタートする。
2月10日、正式にエレクトラ・レコードを通じて全米で発売されると、海外で初めてシングルカットとなった「ROCKIN' MY HEART」がアメリカの“ビルボード”や“ギャビン・レポート”などで紹介された。
特に影響力のある“ビルボード”では、おすすめの新譜10曲としてこの曲がピックアップされ、30以上のラジオ局で流れる事となる。
バンコクでのヒットチャートにも「YAZAWA It's Just Rock'n Roll」が7位、シングル「YES MY LOVE」が5位にランクインするなど、矢沢の名がワールドワイドで賑わうようになっていく。

ちょうどその頃、矢沢は新たに公式ファンクラブ「YAZAWA CLUB」を発足させる。
それまで「EXCITING CLUB」として運営していたが、この組織を解体してまで新しいファンクラブを作ったのは、矢沢永吉直系のスタッフ集団として“今のYAZAWA”をいち早く、そして正確に伝えるために必要不可欠なことだった。
「YAZAWA CLUB」は2022年現在まで、実に39年もの年月を経て存在し続けている。

ファンクラブを立て直したのはもう一つの理由があった。 かつて週刊誌やマスコミの報道によって場所を特定され、家族が生活できないほどにファンに引っ掻き回された山中湖の邸宅。
矢沢が成功の証として初めて建てた家だったが、既に空き家となっていたこの場所に、落書きをするだけでは無く、無断で中に侵入して家の板材で焚き火をしたり、脱ぎ捨てた衣類が置き去りになっていた。 この報告を受けて、すぐに邸宅を跡形もなく取り壊しさせた時、今一度“ファン”とは何なのかを矢沢は考えた。
「ファンだったら何をしてもいいというのはおかしい。高い金出してレコードやコンサートのチケットを買ってくれる気持ちは重要だよ。だけど俺のアーティストの部分とプライベートな部分のボーダーラインもわからないファンにはレコードも買って欲しくないし、コンサートも見てほしくないね。そんなんじゃなくて、カッコいいイカしているファンはたくさんいると信じている。そういう人達に矢沢を応援してもらいたい。その代わりアーティストとしての矢沢は、決してファンを裏切らない、約束するよ。」
ファンクラブの新設はこうした矢沢のメッセージをしっかり伝いたいという想いもあった。

この年の全国ツアー「I am a Model」でも、過激なファンによるコンサート中のトラブルを根絶するために観客席での喫煙行為、場内での飲酒、カメラやテープレコーダーでの盗聴・盗撮を一斉に取り締まるようになる。 さらに悪質な偽物のグッズ販売を抑制するために、オリジナル・グッズの通信販売もスタートした。
老若男女どんな人々でもYAZAWAの最高なステージを見てもらえるために、矢沢永吉とYAZAWA CLUBの地道な戦いがここから始まった。

1984

「イー・ダッシュ」

5月。オーストラリアの季節は秋の終わりに入り、もうすぐ冬に移ろうとしていた。
メルボルンから南西へ約4時間、ポートキャンベル国立公園の砂岩群の間を巨大なエンジンを抱えたチョッパーバイクが駆け抜けていく。 矢沢は例年通り年が明けるとL.A.へ戻って1枚のアルバムを完成させた。 今回のアルバムはアメリカ挑戦を始めた頃から馴染みのあったThe Doobie Brothers一党の名がほとんど消え、若い外国人ミュージシャンが顔を並べる。加えてプロデュースには、今作から長きに渡って矢沢と共同制作を行うこととなるアンドリュー・ゴールドを迎え入れた。
アンドリューは今までも「P.M.9」レコーディングなどでギタープレーヤーとして参加していたが、この新作で矢沢と共同プロデュースすることによって、素晴らしい化学反応を生んだのだった。

「このニューアルバム『E’』は、やっと日本語でロックというものを違和感なく歌えたアルバムだと思う」

そしてアルバムが完成すると、最近の音楽業界では定着しているプロモーション・ビデオの撮影をオーストラリアで行うことを決める。矢沢の新しさを表現するためには新鮮なイメージや景色が必要だからだ。 巨大な船がシドニーの港へ入ってくると、クレーンに吊るされたチョッパーバイクがゆっくりと降ろされた。その黒い野獣のような車体に革ジャンとグラブをはめた矢沢はまたがり、キックペダルに思いっ切り体重を乗せてエンジンを轟かせる。
撮影はヘリコプター2機を使って空撮するなど色々な角度で撮影を進めるが、ポートキャンベルの道幅1mほどの断崖絶壁は危険すぎる為、スタントマンを使うつもりだった。
しかし矢沢の「ファンを騙すみたいで悪いし、良いものにしたいから僕がやる」という一言で、スタッフの心配をよそに、この撮影を完璧にクランクアップさせた。

「E’」も7月25日に発売し、翌月には北から南まで4年ぶりの全国を回る大規模なツアーが北海道の室蘭からスタートする。
このツアーで特に話題になったのが、8月26日に行う横浜スタジアム公演だった。矢沢の“第二の故郷”とも呼ばれているこの場所で25,000人が矢沢の“帰還”を心から待ち望んでいた。

午後6時、初秋を漂わせる、さわやかな風が球場を吹き抜けていく中、照明燈が消されるとイントロダクションの「スタイナー」が流れる。 オープニングと共に、球場内のゲートから黒いシボレーに乗った矢沢が登場した。
場内のけたたましい歓声の中、矢沢はステージに続く階段を登っていく。 白いジャケットの下に赤と白の縦縞のシャツ、タータンチェックのパンツという姿で、「逃亡者」の曲と共にライヴがスタートした。
8曲目のスローバラード「棕櫚の影に」が演奏されても、誰もが座ることすら忘れてしまっている。
すると全くの偶然の出来事だったが、スタンド席から観客がライターの火を灯して掲げながらゆっくりと揺らした。この仕草が全体に連鎖していき、小さな光の海が広がるという幻想的な演出を生んだ。
会場拒否問題により、なかなか実現できなかった横浜スタジアム公演だったが、やっと実現することが叶った。8年前にリリースした「ひき潮」の弾き語り、ステージでは滅多に演奏しない「THIS IS A SONG FOR COCA-COLA」など、思い出深い街“ヨコハマ”で存分に本物のロックを見せつけた。
ツアー前に矢沢が語ったこの言葉通り、ファン、スタッフ、そして矢沢自身と、この日スタジアムにいたすべての人が心から満足できる一夜となった。

1985

LIVE AID

世界ではアフリカを中心とした飢餓難民を救うというスローガンのもと、チャリティーイベントの大ムーブメントが巻き起こっていた。
去年、イギリスとアイルランドのロック・ポップス界のスーパースターが集まって結成されたチャリティー・プロジェクト「バンド・エイド」が大成功を収める。
それがムーブメントの火付役となり、このプロジェクトに触発される形でアメリカではハリー・ベラフォンテやライオネル・リッチーなどの超大物アーティストらが次々と集まり、総勢45名のプロジェクト「USAフォー・アフリカ」が誕生したのだ。
1月28日、このスペシャルな集団は“キング・オブ・ポップ” マイケル・ジャクソンを中心として「ウィー・アー・ザ・ワールド」のレコーディングが開始された。
その収録スタジオはちょうど10年前、矢沢がソロデビューを果たすために「I LOVE YOU,OK」をレコーディングしたロサンゼルスの郊外にあるA&Mスタジオだった。

そしてとうとう、世界中を大きく騒がせる一大チャリティーライヴイベントが動き出そうとしていた。
その名も「LIVE AID(ライヴエイド)」。今世紀最大の“ロック・イベント”として全世界にライヴの模様を衛星中継するという、今までの音楽史では類を見ない世界規模のプロジェクトだった。 このイベント中継に真っ先に飛び付いたのがフジテレビだった。かつてキャロルがデビューのきっかけを掴んだテレビ番組『リブ・ヤング』を企画した石田 弘が先頭に立って、衛星中継の枠の中に日本からのライヴ配信映像を組み込むことに成功する。
しかしその枠も総中継12時間以上ある内のたったの9分。それでもこの日本から発信する9分間が全世界に中継されることは、とてつもなく意義のある時間だった。
この短い時間の中でどのアーティストを出演させるか…石田は英BBC放送との話し合いで4組のアーティストを全世界中継枠で出演させることを決定した。
オフコース、佐野元春、ラウドネス、そして矢沢永吉であった。
7月13日に行うライヴの模様は世界84カ国のテレビで配信される他、VTR放送も含めると140カ国以上の人々が目にすることとなる。

イギリスのウェンブリー・スタジアムではクイーン、U2、エルトン・ジョン、ポール・マッカートニーなど30組近くが約72,000の観客の前で伝説的なパフォーマンスを披露。
アメリカのJFKスタジアムでも約90,000人の人間が押し寄せビーチ・ボーイズ、マドンナ、エリック・クラプトン、レッド・ツェッペリン、ボブ・ディラン錚々たるアーティストが次々と出演していく。
日本での世界向け映像は夜の10時半頃から英語の紹介とともに開始された。 矢沢はこの中継のために、ニューアルバム「YOKOHAMA二十才(ハタチ)まえ」にも収められている「苦い雨」と19枚目のシングル「TAKE IT TIME」をダイナミックに歌う。
矢沢がテレビの生放送に出演するのは初めてのことであったが、日本代表アーティストとしてこのイベントの主旨に心から賛同し、最高のステージを繰り広げた。

1986

ファンとともに。

「YOKOHAMA二十才(ハタチ)まえ」はめでたくオリコン1位となり、11月の終わり頃にキャロル時代のナンバーをセルフ・カバーしたアルバム「TEN YEARS AGO」を発表し、2回に渡っての全国ツアー開催と、休むことなど知らないほどに去年の矢沢は走りまくった。
ツアーのMCで矢沢は力を込めて「あと、10年は全力で走り続ける。」と語った。
最終日12月19日の日本武道館で数人の観客が演奏中に騒ぎ出して喧嘩を始めた。矢沢は演奏を一旦中断し騒いでいる観客へのブーイングが起きる中、冷静に口を開いた。
「僕は自分の音楽が最高だと思っているし、命をかけて最高のステージを観せようと、いつも思っている。その僕の音楽を楽しむことと、なんでもいいからグシャグシャにしちゃうってことを勘違いしている奴はファンでもなんでもない。度を越す奴はノー・サンキューだよ。矢沢のコンサートには行きたいけれど、雰囲気が悪そうだから、怖そうだから行けないなんていうことを読んだり聞いたりする。そういうのって寂しいじゃないか。もう、そういうふうにはしたくないんだよ。僕は、これから10年間歌っていくんだって言ってるわけ。」
そう答え、再び初めから「SHE BELONGS TO HIM」を歌い始めた。
こうして激動の1985年が幕を閉じた

この時35歳。並の人間ならこれだけの激務が終われば、バカンスに出かけたり仕事をセーブしたりするものだが矢沢はそんなそぶりは一切見せずに、年が明ければ再び次作のアルバム作りに取り掛かる為アメリカへ飛んでいく。

今回のアルバムも非常にバラエティに富んだ楽曲が出来上がっていた。 14作目のオリジナルアルバムの名は「東京ナイト」。矢沢が筆で書いたジャケットデザインは一人のナイトドレスを着た女性のような、何か吸い込まれる独特の味わいがある。
一曲目から、無骨で金属的な音が降ってくる「東京ナイト」から始まり一転、清々しい透き通った海辺のモーテルを思わせるような「風芝居」、思わず踊り出してしまいたくなるような爽やかなサックスの音が響き渡る「BELIEVE IN ME」…
アンドリュー・ゴールドとの共作プロデュース第3作目のこの作品は文句なしの傑作だった。
そして、このアルバムに収録されたある1曲が、後の矢沢のライヴキャリアに大きな影響を与えることとなる。その曲はこの年のツアータイトル名にも引用された。

9月2日の宇都宮市文化会館から全55本の全国ツアー「FEELIN' COME HA~HA」がスタートした。
今回のツアーは日本人を中心としたメンバーで構成されていてDrumsの名手、村上"ポンタ"秀一が矢沢永吉のプロジェクトに参加したのは1978年アルバム「ゴールドラッシュ」のレコーディング以来だった。
矢沢の歌声とポンタの重たいドラム音は相性が良く、オープニングの「さまよい」では弾けようなリズムと、矢沢のパワフルでエネルギッシュなパフォーマンスが一気に会場のボルテージを上げる。
そのままの勢いでアンコールへ入ると、ツアーのタイトルテーマである「止まらないHa〜Ha」のイントロと同時に、白いスーツと白いパナマハットをかぶった矢沢が登場。
軽やかなステップを踏みながらステージを縦横無尽に動き回っていると、曲に合わせてグッズのタオルを振り回したり上に放り投げたりする観客がパラパラと現れた。
この行為が、初めのうちは数人かしか行なっていなかったのが翌年には何十人、その翌年には何百人…
いつの間にか、この曲が流れた時は会場中のタオルが一斉に舞い上がることが定番となっていた。
あまり矢沢を知らない者でさえ、矢沢永吉といえば「止まらないHa〜Ha」とまで言われるほど世間に浸透していくとは夢にも思わなかっただろう。

本当の意味で皆が楽しくなれるライヴをファンとともに作り上げていくことが実感できる瞬間であった。

1987

世界と矢沢永吉

世界発売第3弾アルバム「FLASH IN JAPAN」を出したら、矢沢は7年間世話になったワーナー・パイオニアを離れることにした。

矢沢は新たな情熱を求めて海を渡った。そしてそこにいたミュージシャンの連中は本気で矢沢と向き合い、全力でぶつかり合いながら最高の音を作っていった。
しかし、その音を売る側が本気ではなかった。なぜならワーナー・パイオニアは日本でのマーケティングさえ押さえていれば安泰だからだ。 アメリカでの宣伝はほぼ皆無に等しい。自分で自分のポスターを制作してアメリカに送って…
海外契約したエレクトラ・アサイラムは宣伝費を一銭もかけてくれなかった。
音楽のマーケティングには“ディストリビューション(流通)”という仕組みがある。簡単にいえば販売代行を行なってくれる契約のことだが、これを担っていたのがエレクトラだった。
実際に行なっていることは新しいアルバムを各レコード店に卸す、ただそれだけ。
流通だけではなく、発売元もエレクトラであればもっとアメリカ国内で大々的に広告されていただろう。全く違った景色が見えていたかもしれない。
“無名の日本人が一人アメリカへ乗り込んで、自らの手でレコード契約を勝ち取る。” 聞こえはいいが肝心のアルバムは思うように売れない…
結局は矢沢だけが悔しい思いをしていただけだと知った時、虚しさだけが残った。

今度発売するアルバムはアメリカのみで販売することを決めた。
レーベルも今まではワーナー・パイオニアだったが、アメリカのワーナー・ミュージック・グループ直径の「ワーナ・ブラザーズ・レコード」から発売される。皮肉にも、ようやく正真正銘アメリカに挑戦することができた。

去年の12月、アルバムのタイトルにもなっているシングルカット曲「FLASH IN JAPAN」のプロモーション・ビデオ撮影のために広島へ降り立った。
矢沢は高校卒業後、ずっと広島には背を向け続けていた。矢沢にとって人生のベーシックはビートルズに憧れて夜汽車から降り立った横浜にあると思っていたからだ。
それが今回、ツアー中の広島ではホテルでしか過ごさなかった矢沢が、初めて外の店で酒を飲んで酔っぱらう。
嬉しかった。生まれてから高校時代までの貧しくて苦しい過去に反発していたことが馬鹿馬鹿しくなった。本当は自分の生まれた故郷が大好きだったからだ。

撮影はワーナー・ブラザーズからの推薦で選ばれた3人の撮影スタッフを中心にして、70人以上のエキストラ・スタッフを募って行われた。
ロケ地は平和記念公園。矢沢は原爆ドームを背にしてカメラの前に佇んだ。 終戦から42年がたった今なお、原子爆弾の威力を物語るように鉄骨が剥き出しになったままになっている天井のドームは、朝日を浴びて寂しげなシルエットを映し出していた。

この「FLASH IN JAPAN」を作詞・作曲したマイケル・ランと広島出身の矢沢永吉が結びついたのは全くの偶然であった。
広島出身の日本人が原爆ドームで全英詞の反戦歌を歌う。そしてその曲を日本ではなくアメリカだけで販売することは衝撃的な出来事だった。

結果、5月18日発売の全米盤アルバム「FLASH IN JAPAN」の売り上げは5万枚ほどにとどまったが、純粋にアメリカ人がこのアルバムを買って聞いてくれたということが、日本で何億という印税をもらうことよりも価値があることだった。

そしてこの年で、1981年から7年間在籍したワーナー・パイオニアとは契約を断つこととなる。
矢沢の一つの“章”が終わり、新たな道を模索するための旅が始まった。

50 YEARS HISTORY

1981-87

「アメリカへの挑戦」