1949 - 75

1949

稀代のロックスター誕生

1949年9月14日、広島にて矢沢永吉は生まれる。

第2次世界大戦終戦後、日本は復興を目指す中、矢沢を含めこの時代に生まれた人々は「団塊の世代」と呼ばれるようになった。

矢沢が3歳の時に両親が離婚し、父親の手で育てられるが小学校に入学した翌年、父が病により死去。
両親を亡くした後は、親戚の家を転々とし、最後は祖母に引き取られ一緒に暮らし始める。
小学5年生の夏からはアルバイトを始め、早朝の新聞配達や牛乳配達で家計を助けていた。

只々、生きることに必死になっていた日々の中、中学校に進学。そんなある日、FMラジオで流れたビートルズの曲を聞いた瞬間、矢沢の心に大きな化学反応を起こした。

矢沢が初めて【音楽】に目覚めた瞬間だった。

1968年、高校を卒業してすぐに、ビートルズのようなスターを目指して東京行きの夜行列車に乗る。
荷物は作曲ノートが入ったトランクとギターだけ。
広島駅から見送ってくれるものは1人もいなかった。

次第に視界から離れていく、苦しみと哀しみの入り混じった故郷を眺めながら、矢沢は心の中でつぶやいた...「必ずビッグになってやる。」

東京を目指し、夜汽車に乗った矢沢だったが、長時間の乗車による疲れと不意に聞こえてきた「次は横浜~」というアナウンスに、『ビートルズ』と彼らの出生の地「港町リバプール」を重ねた。

そして矢沢はすぐに決断を下した。この“港町・横浜”を成り上がりの舞台にしようと。
しかし、そこからの道は決して緩やかではなかった。

レストランなどでアルバイトをしながら、酒場やクラブで「ザ・ベース」や「イーセット」といったバンドを結成してはライヴを行う日々…
酔っ払った客との喧嘩や、演奏中にタバコや物が飛んでくることも日常茶飯事。
そんな中でも矢沢のデビューへの情熱は消えることなく、愚直に前へ進んでいく。
そして矢沢が23歳の1972年、運命の扉が開いた。

1972

伝説のバンド「CAROL」

確かな手応えを感じていた。当時結成していたバンド「ヤマト」は横浜界隈では知らないものが居ないくらい名が広がっていた。
「いける。こいつら(メンバー)とだったら、骨を埋める覚悟でやってやる。」
そう思っていた矢先、時代はフォークソングブームが押し寄せ、「反戦歌」「四畳半フォーク」といった当時の時代背景を赤裸々に表現する音楽が流行する。
矢沢達がライヴの拠点としていた“ディスコ”が次々と閉店し、やがてバンド活動すらままならない状況となってしまっていた。そしてついに、ヤマトは解散せざるを得なくなってしまう。
“もう音楽なんて辞めてしまおうか”と思うくらい大きな挫折を感じていたが、それでも矢沢は一縷の望みを信じて走り続けることを決意した。

相変わらずのアルバイト三昧で、家賃を支払うこともままならない状況が続く中でも、自ら書いたバンドメンバー募集の紙を貼りまくり、再びバンドを組むべく奔走していた矢沢のもとに内海利勝、大倉洋一の2人が集まり、「CAROL(キャロル)」を結成する。

演奏する場所のブッキングや、メンバーの送り迎えなどのマネージャー業も矢沢が兼務しながらデモテープを送ったりオーディションに参加したりしている矢先、フジテレビから若者向けのテレビ番組『リブ・ヤング』出演のオファーを受ける。
「絶対にナメられたくなかった。」その気持ちから、ステージ衣装には黒い革ジャンにブーツといった今までにないワイルドな出で立ちで出演し、演奏した彼らはここから一気に運命が変わることとなる。

『リブ・ヤング』を偶然テレビで観ていた音楽プロデューサー、ミッキー・カーチスの目にとまり、キャロルが演奏を終えた直後には番組ディレクターを通じて矢沢と電話で話していた。
番組の翌日にはレコード会社の日本フォノグラムと専属契約を結び、その次の日にはレコーディングを行う。 10月1日にセンセーショナルな形でテレビ初出演した若者たちは、その約3ヶ月後、12月25日のクリスマスの日にシングル盤「ルイジアンナ」をリリース。

結成から僅か半年、キャロルがメジャーデビューを果たした。
矢沢の想いがついに届いた瞬間だった。

※『リブ・ヤング』出演後の11月、岡崎ユウがキャロルのメンバーとして加入。

1973

ファンキー・モンキー・ベイビー

衝撃のデビューから“ロックン・ロール”を瞬く間に日本に浸透させたキャロル。
1stシングル「ルイジアンナ」、2ndシングル「ヘイ・タクシー」3rdシングル「やりきれない気持」…
一ヶ月に一枚という超ハイスペースでシングルをリリースしていくと、その全てがメンバーやレコード会社の期待に応えるようにヒットしていく。

そうして当時の若者層から確実に支持を増やしている一方、彼らのようなスタイルに呼応して暴走族がコンサート会場に集まって集会を行い、ファン同士があちこちで喧嘩を行なっている状況が続いた為、各会場から公演拒否されることがしばしば起こってしまった。
さらに、今までざらついた荒々しいサウンドの音楽に免疫が無かった人々からは「不良が聴く音楽」「暴力的」と囁かれるなど風当たりが強い面もあり、それがかえって熱狂的なファンの反発を煽ることで、人気に拍車をかける現象となる。

そんな折、内田裕也がプロデュースを努めた「第1回ロックンロール・カーニバル」に出演することが決定したキャロルは、このライヴイベントが週刊誌に大きく取り上げられたことに加え、前述の現象で一般人だけでなく、著名な写真家やプロデューサー、映画監督など多くの業界人の注目の的となった。
このイベントを成功させれば、間違いなくスター街道を突き進めることが確約されていたが、渋谷公会堂に集まった今までに見たこともない大衆の前に、極度の緊張状態となった矢沢達は楽屋で大酒を煽り高ぶった感情を抑えようと試みた。
いざ出番となり一気に感情を爆発させて、汗を飛び散らせながら激しい音を観客に突き刺していく中、ジョニー大倉の意識は次第に薄れていき、ついに演奏中に失神してしまった。
この前代未聞の熱狂的なライヴが本格的なキャロル・ブームの火種となり、名実ともに大スターの仲間入りとなる。デビューから約2ヶ月後の出来事であった。
この勢いをそのままに、第7作目のシングル「ファンキー・モンキー・ベイビー」を発表し、ロックバンドとしては異例の30万枚という売り上げを達成。
この曲こそがキャロルを象徴する曲であり、今なお多くのアーティストにカバーされている代表曲となる。
順風満帆にスター街道というレールを突っ走っていたキャロルだったが、やはり彼らに対する逆風は止まなかった。
渋谷公会堂での彼らのパフォーマンスに魅せられた当時のNHKディレクターは、キャロルのドキュメンタリー番組を実現すべく奔走するが、NHK上層部は幅広い年齢層に視聴される“ゴールデンタイム”ではロックは良い影響を与えないため、絶対に放送できないと大反対し、最終的に編集を大幅にカットした映像が若者向けの音楽番組でオンエアされる。皆、この理不尽な判断に失意と怒りを感じていた。
しかし、そんな逆風の中でもキャロルとそれを取り巻く熱狂の炎が鎮火することは無かった。

1974

映画「キャロル」

それは突然のことだった…
ジョニーが失踪した。京都公演へ向かおうとした矢先、宿泊していたホテルにジョニーの姿はなかった。
矢沢はこのままツアーを中止して東京に帰ろうかとも考えていたが、キャロルを待っているファン達のことを裏切るわけにはいかず、急遽新メンバーを加えてツアーを続行する。
結局、年が明けて1ヶ月経ってもジョニーは家にも帰って来なかった。

このバンド史上最大のピンチを救ったのが、昨年幻に終わったキャロルのドキュメンタリー番組を制作していたNHKディレクター、龍村仁の「パリへ、行ってみない?」という一言だった。
前述の無念を晴らすために、日本の映画会社“ATG”から資本を受けフランスのパリで映画撮影を行うという龍村の提案を、彼らは二つ返事で引き受けることとなる。
ちょうどその頃、パリではファッションデザイナー、山本寛斎のファッションショーが行われることが決定しており、そのショーの一環としてライヴを企画するに辺り、キャロルに白羽の矢が立った。
大切なメンバーが欠けてしまった不安を払拭しようと皆、毎日一心不乱に練習はするが、
「あいつ(ジョニー)、どこで、なにをしているんだろう…」
そして、パリへ行く1ヶ月前となった2月、突然ウッちゃん(内海)の家に一本の電話が鳴った。
ジョニーからだった…

なんとかパリへ行く前にジョニーが復帰したが、休む間もなく練習やレコーディング、さらに映画撮影の為の空手の稽古もメンバー全員がこなしていく必要があった。
皆、パリへ行く前にヘトヘトになっていたが、その気持ちとは裏腹に新天地への挑戦に心は燃えていた。

パリに着いたのが3月23日、その5日後にはショー本番なのだが一向にリハーサルが出来ず衣装の運搬を手伝ったり、ショーのリハーサルにまだこないモデルの代役などを行なったりと、全く彼らのリハーサルが出来なかった。
練習ができたとしても、そこには本番当日までアンプもPAシステムも無い為、音が全く出ない。
はじめはパリ見物を楽しんでいたが次第にイライラが募っていき、最後には一言も口を聞かず、誰もいないガランとした会場の中で黙々と自分達の楽器を片付けていた…
ところが本人達の心配は杞憂に終わるほど、本番のライヴは大成功を飾った。
ファッションショーという華やかな舞台を一気に転じ、爆発的な“Rock ‘N’ Roll”を魅せつけたキャロルは会場にいた観客に強烈な印象を残した。
こうして映画の撮影もライヴも大成功して、意気揚々と日本に引き上げたキャロルだったが、すぐに彼らを困らせる出来事が噴出する。
今まで以上に会場内での乱闘事件が横行し、社会問題にまで発展していたのだった。

1975

炎のラストライヴ

いつの間にか、それぞれの歯車は噛み合わなくなっていた。 もう一度初心に戻ってスタートしようと決起するために、矢沢はメンバーを集めたはずだったが、「解散したい。」「もう終わりにしたい。」予想外の返答に返す言葉が見つからない。
夜明けまでこれからのことや、解散以外に方法は無いのか話し合っては見るものの、既に4人の見ている夢は別々の場所となってしまっていたのだった。

解散と銘打った「GOOD BYE CAROL」全国ツアーは当然のように即完、各会場はどこも超満員だった。
彼らの解散を受け入れられない者は、公演が終わった後も会場を離れず、いつまでもアンコールの合唱を続けていたり、ステージが終わって裏口から飛び乗った送迎車をバイクや車でひたすら追いかける行為を繰り返していた。 そうしたファンの過剰なまでのキャロルに対する愛情が、もはや主催者やスタッフでも抑えきれない状況だった。
矢沢はこの状況を打破するべくツアー最終日の4月13日に、巷で評判となっていたバイクチーム「クールス」に声をかける。
クールスをキャロルの親衛隊として矢沢達を乗せた車を包囲し、会場となる日比谷野外音楽堂へ向かうという演出を考え出した。

そしてキャロル最後のステージ本番、まさに狂気とはこの日のことを表しているかのようだった。
ステージに上がろうと押し寄せてくる最前列の観客、それを止めようとする大勢の関係者、演奏に対抗するかの如く、怒号のようにも聞こえる歓声と叫び。
雨が降りしきる中、本当にこの日にキャロルは解散するのかと感じるほどに、日比谷の夜は7000人もの人間の“うねり”と“どよめき”によって荒れ狂っていた。
アンコールが終わった直後、突如ステージに周りが霞むほどの白煙が立ち込める。
その瞬間、「パン、パーン!!」という、激しい破裂音が幾重にも重なって会場全員の耳をつんざいた。
最後の演出に残しておいた爆竹200発が、雨で暴発したのだった。
盛大に破裂した火花はあっという間に、ステージに飾ってあったキャロルの象徴となる看板を炎で覆い、焼き尽くされたステージの天井は崩れ落ちて、会場は火の海となった。

何台もの消防車のサイレンの音とともに、キャロルは終わった。
デビューして約3年半という短い生涯の幕を閉じたこのグループは、間違いなく日本の音楽の概念を根底からぶち壊し、今日に至るまで伝説として語り継がれている。

だが、矢沢にはそんな感傷に浸る暇がないほど、大きな挑戦を見据えていたのだった。

50 YEARS HISTORY

1949-75

「出生」〜「CAROL解散」