1975 - 80

1975

ROCKの炎を絶やすな!

5月。生まれて初めて体感したアメリカのレコーディングスタジオは、日本と比べて大きく変わった印象は感じなかった。Carpenters、Carole King…名だたるアーティストによって数々の名曲が生まれた、このロサンゼルスの郊外にある名門スタジオから、矢沢の新たなる挑戦が幕を開けた。

キャロルが日比谷野外音楽堂で劇的な終幕を迎えたわずか20日後、この名門A&Mスタジオでソロデビューアルバムの制作を進めていた。このシナリオはキャロルが解散すると決まった時点で、既に矢沢のイメージの中に描かれていたのだ。

「俺は今燃えている。キャロルで俺の出来る全てを、ぶっつけてみようと思ったあの時も、こんな気持ちだった。」 プロデューサーには「ゴッドファーザー」など映画音楽で大きく名を馳せているトム・マック氏を迎え、 スタジオミュージシャンは当然のことながら全てウエスト・コーストの一流軍団。矢沢が持ってきたデモテープを聴きながら次々と“本場の音”がマルチテープに吹き込まれ、曲が彩られていく。
「日本にだって良い設備・機材、テクニックはあるけど、決定的なのはその場の雰囲気。すごくリラックスしていながら決めるところはビシッと決める。彼らは実に“音楽する”ってことを体で知っている連中だったのさ。」
約2週間のアメリカでの滞在期間を終えて、キャロル解散から5ヶ月後の9月21日、シングル「アイ・ラヴ・ユー、OK」、アルバム「I LOVE YOU,OK」を引っさげて、矢沢永吉はソロデビューを果たす。
デビュー前の8月には、東京赤坂のクラブ「MUGEN」で会見代わりにアルバム曲を数曲披露すると同時に、レコード会社をキャロル時代契約していたフォノグラムからCBS・ソニーへ移したことも大々的に発表された。

そしてソロデビューとほぼ同時期の9月27日、京都会館を皮切りに全国ツアー「AROUND JAPAN PART-1」がスタートする。 しかしキャロル時代のファンには、矢沢のソロデビューを快く思っていない者も多数存在した。
何故なら、今まで攻撃的なROCK’N’ROLLをしてきた「キャロルの矢沢永吉」が一点、バラードでのデビューを飾ったことに不満と反感を抱いたからだった。

半年前までは当たり前のようにソールドアウトしていたチケットが売れない… 新たなるサクセスストーリーの火蓋を切らんとする矢沢にとって、正に洗礼とも言える出来事であった。 とりわけ佐世保市民会館は極端に売上が悪く、公演当日の雨の中、スタッフが総出でチケットを手売りしたが完売には程遠かった。 1000を優に超える集約人数の会場に、200人余りの観客を前にして矢沢は言った。 「俺は今悔しい。だけど今来ている人は幸せだよ。何故なら、こんな素晴らしい矢沢が見れるからさ。」

観客が何人だろうと「矢沢永吉」というプライドを掲げ、常に最高のステージを魅せてやる。 悔しさが込み上げる中、これから始まる長いソロキャリアへの覚悟を抱いて200人の前で歌った。

ステージを終えて、矢沢はスタッフ達につぶやいた。 「この日のことは絶対忘れない、決めるぞ。リメンバー佐世保だ。」

次にこの地へ立った時には、きっちり“オトシマエ”をつけることを誓って矢沢は次の街、福岡へ向かうのであった。

1976

「E.YAZAWA」

“キャロルの矢沢永吉”はもういない。今ここに存在しているのは“矢沢永吉”という一人のロック・シンガーであり、一人のクリエイターなのである。

「新しいものを作り出さないならば、キャロルを解散する必要なんてない。周りが俺に追いついてしまった時にはもう遅いんだ。初めはどんなにお客が唖然としていても、非難の嵐が起きようとも、最後は俺が勝つことを信じて前だけ向いて走るんだよ。後ろを向いた矢沢なんて、誰も振り向きゃしない。」

年を跨いでソロデビューツアーの最終日、中野サンプラザ。
全身ラメの入った衣装を身に纏って「アイ・ラヴ・ユー、OK」を歌うと、口をあんぐり開けてこっちを見ている観客…今の矢沢に違和感を感じているのだろう。
それでもこの男の意志は頑なだった。キャロルの“ノリ”のままでいけば、矢沢も客も安心するし、チケットも売れて懐は潤うことは分かってはいた。 “金じゃない。金に縛られるもんじゃない。”この言葉の意味が確実に浸透していくこととなる。

最終日を終えて束の間、矢沢はすぐに次のツアーの準備に取り掛かる。
鉄は熱いうちにガンガン打たなければいけない。3ヶ月後の4月にはスタートして、前回のツアーの倍以上の本数を回っていくことが既に決定していた。 その中でも特に目立っている会場があの日比谷野外音楽堂(通称:野音)だ。キャロルが解散して1年が過ぎ、再びあの地に降り立つのだ。
矢沢の思惑通り、ライヴの動員数が着々と増えていく。「33000MILES ROAD JAPAN」ツアーが始まる頃には、ソロシンガー“矢沢永吉”の認知は確固たるものとなっていった。

7月24日、真夏に行う野音の公演は『THE STAR IN HIBIYA』と命名しチケットは即完、約1年ぶりに伝説の地へ凱旋する男の姿を見ようと、ロックンロール・エイジの男女が客席を埋め尽くした。
夜7時。いよいよ照明に灯が入り、既に観客のボルテージは最高潮まで達している。そこまで高さのないステージに前のめりで乗り込む者、熱気にほだされステージにあがろうとする者、そしてそれを制止するセキュリティー。 その爆発寸前の会場に、真っ黒なリンカーン・コンチネンタルが舞台裏へやってきた。
車内の奥には真っ白なスーツを身に纏い、胸の真ん中にはこのライヴの象徴となる星マークが描かれたTシャツを着た男が顔を覗かせている。
そしてバッチリ決めた髪を整えながら、ゆっくりと後部座席から出るとステージ袖へ向かっていった。

大森正治・高橋幸宏のバスドラの音を合図に、弾けるようなブラス音をJAKE H.CONCEPCION・下川英雄・須山恭一3人のホーンセクションが奏でると、ギターの相沢行夫・高中正義、ベースの後藤次利、キーボードの今井裕がそれに続く。
このオープニング「恋の列車はリバプール発」のイントロが流れると同時に、矢沢はステージの中央へ勢いよく飛び込んでいった。
そのまま「セクシー・キャット」と新曲「トラベリン・バス」を畳み掛けるように3曲連続で歌い終えた刹那、矢沢は叫んだ。 「みんな元気か!? 帰ってきたぞ〜!」

矢沢永吉という一人の男が再び栄光を掴むべく一気に昇っていくことを、その場にいる誰もが疑う余地は無かった。

この伝説の地から、新たに壮大なサクセスストーリーが刻まれていくことを予感させる夜だった。

1977

ライヴの聖地「日本武道館」〜きつい旅だぜ〜

楽屋の鏡を覗くと、酷くやつれた顔の男が立っている。
それもそうだ。120本を超えるツアーにレコーディング、雑誌の取材、コマーシャル撮影…
何故そこまでボロボロになる程、この男は走らなければいけないのか?理由は簡単だった。
ロックは今の日本でメジャーではない。もっとROCK’N’ROLLを世に浸透させるには、年間150本ライヴをやっても足りないくらいだ。
4〜5回、同じ場所でライヴしているうちに人が踏み出した跡がつく。その道を後世のロックをやる人間が通れるようにするには、もっと、もっと。まだ足りない。
もちろん矢沢は他人や後世のためにロック歌手をやっているわけではない。8月26日の日本武道館は、日本人ソロ・ロック歌手としては初の単独公演となるが、これも一つの通過点でしかない。

“きつい旅だぜ、お前にわかるかい……その日ぐらしが、どんなものなのか。”
去年リリースした2ndアルバム「A Day」の3曲目「トラベリン・バス」の詞が脳裏に浮かんでくる。
西岡恭蔵が書いた詞…まさに今の矢沢を体現していた。

矢沢のキャリアの中でも、日本武道館クラスの大きな会場でライヴを行うことは未知数だった。
少年時代、心の底から憧れたビートルズが1966年に初めて来日してライヴをした場所…
当日のリハーサルでは普段よりもさらに念入りに音合わせを行うが、簡単には音が“キマら”ない。
PAエリアとステージを行ったり来たりしながら、何度もチェックをしてギリギリまで音を作り上げていく。この頃あたりから、マイクスタンドに白いビニールテープをグルグル巻くようになった。
ライヴ中にマイクスタンドを蹴り上げてもケーブルが外れないようにするためだ。
楽屋に戻ってもソファーに座り、ギブソンのアコースティックギターを抱えて「雨のハイウェイ」を爪弾いていた。

1万人のファンが矢沢永吉を待っている。 つい2年前はチケット1000枚捌くのに苦労していたのにだ。段々とロックが受け入れられていく。
汗を弾いたノリのいい曲だけがロックじゃない。スローバラードだろうがミディアムテンポだろうが、ハートで汗をかいているかどうか。これが大事だ。

「どんな小さな会場だって、武道館だって、本質的には変わりゃしない。ナマの身体で山を越えて、本物のショーを見せる。これがほんとうのロックさ」
薄暗くなったバックヤードの階段を、大勢のボディーガードと共に矢沢は下りていく。
そこからでも矢沢を今か今かと待ちわびている観客の声は轟いている。 新たなる伝説がこの日から始まった。

1978

掴み取った頂上

時は遡り、キャロルが解散した直後、アメリカでのレコーティングを計画していたのとは別に、矢沢には“もう一つのプラン”があった。 それは、矢沢が作る楽曲の著作権・自身の肖像権に関してはっきりさせることだった。 当時の音楽業界はアーティストが自分の作品の権利を主張するなど言語道断。レコード会社や音楽出版社が権利を掌握し、CDの売り上げなどはミュージシャンの懐にほとんど届かないようになっていた。 この情勢を打破するべく、矢沢は自らの音楽出版社を立ち上げる。 そこでは音楽著作権だけではなく、グッズの販売なども管理する。それ相応のリスクは伴うものの、アーティスト自らが音楽ビジネスを展開できる仕組みを新しく作ったのだった。 ビートルズが設立した会社『アップル・コア』にならって進めたこの計画が、矢沢の音楽人生を大きく躍進させることとなる。

1年と約1ヶ月で127本のライヴを終えた時には、世間も矢沢永吉を「ロックの王者」と称え、スーパースターの地位を確固たるものにしていた。 しかし、ここでまた“あの問題”が起きる。過激なファンの度重なる迷惑行為により、会場使用拒否問題が勃発。キャロルの頃の悩みを再び抱えてしまった。 3月からまたスタートする100本を予定しているツアーも約30ヶ所の会場から使用拒否を通達されてしまう。 時を同じくして、矢沢は自身5枚目のシングルの制作に入っていた。化粧品のCMソングを作ってほしいという依頼をCBS・ソニーのプロデューサーだった酒井政利から受けていたからだ。 ツアー中、キャッチコピー「時間よ止まれ」と書かれた絵コンテが届くと、矢沢はすぐに手元にあったギターを取ってカセットテープレコーダーに歌い始める。 ほんの数分で完成した仮歌は、まさに南国の風を感じるようなミディアムバラードだった。

1月7日、レコーディングにはヤマト時代からの盟友、木原敏夫をはじめ、相沢行夫・後藤次利・高橋幸宏のライヴではお馴染みのメンバーに加え、パーカッションに斉藤ノブ、そしてキーボードはに坂本龍一を迎えて行われた。 「夏のミラージュ」という仮題の、山川啓介が書いた歌詞を見ながら作られていくサウンドは、演奏者とエンジニアの吉野金次と共に、クリエイティブな空間を生み出していた。 かくして新曲が出来上がったのだが、矢沢は発売に乗り気ではなかった。 CM曲としてあらかじめ仕掛けられた曲を世に出すことに対して、どうしても100%納得がいかなかったからだ。それでも酒井の説得によって3月21日に発売日が決まり、曲名も「時間よ止まれ」というキャッチコピーがそのまま採用された。

そして発売日とほぼ同日となる3月20日、前年の日本武道館よりもはるかに大きい後楽園スタジアムを含めた全国縦断ツアー「GOLD RUSH」がスタートする。会場拒否問題もやりくりして、103本組むことができた。乗りに乗っている今が“勝負どき” 反撃を開始した。

資生堂の化粧品CMソングというタイアップ付きでリリースされた「時間よ止まれ」は、瞬く間に全国の国民の耳を虜にした。 ロック・ミュージシャンと化粧品という、全く異なったものの対比が強烈なインパクトを残すと、レコードは売れに売れ、一気に日本のヒットチャートを駆け上がっていく。 20万枚…50万枚…。ついに6月、矢沢はこのシングルと、ツアー名と同様のタイトルを冠したアルバム「ゴールドラッシュ」の2作品で自身初のオリコンチャート1位を獲得した。 長者番付歌手部門でも1位となり、名実ともにビートルズに憧れて、ほぼ無一文で広島を飛び出した男は、日本のトップを自分の手で掴み取ったのだ。

さらに、普段から矢沢は自らをある言葉で形容していた。 “成りあがり”その自身の生き様を赤裸々に語るべく、楽屋の片隅・屋台での食事中・車の車内、あらゆる場所でコピーライターの糸井重里を常にそばに置いて、今まで矢沢が味わってきた苦悩や喜びを全て伝えた。 そうして出来上がった一冊の自伝「矢沢永吉激論集−成りあがり」は大ベストセラーとなり、音楽界の枠に収まらないほどの社会現象が巻き起こる。

当然その勢いが「GOLD RUSH」ツアーにも影響して、もはやライヴチケットはプレミアとなった。 チケットが取れなかったファンは諦めきれずに、ライヴ本番中に会場外で少しでも音を聴こうと集まったり、当日のチケットを求めて公演2日前から会場前で寝泊まりするものが続出するほどだった。 そんな中迎えた8月28日、後楽園スタジアムには大勢の機動隊が会場の周りを取り囲み、厳戒態勢を敷いていた。 当時、国内最大級の収容人数を誇る野球のメッカに、4万人の観客が所狭しとひしめき合う。防球ネットにかぶりついて矢沢に届けとばかりに「永ちゃん!永ちゃん!」と叫び続けているファン達。 「E.YAZAWA」と描かれた巨大なタオルを肩に羽織って、夏の終わりの涼しい夜風を感じながら矢沢は思った。 “この日のために俺は生きてきたんだ。そして今日が始まりの日だ” 日本のロックの歴史がここから始まる。このライヴで矢沢はそう予感していた。

「今日はどうもありがとう。また来年、そう、また来年までよろしく」 ステージから見えるこの景色は、さながら大海原のように激しく揺れ、歓声の波がうねり続けていた。

1979

スーパースターであるということ

雄大な富士を見渡せる山中湖のすぐそばで、矢沢は家族と暮らしていた。
6月に発売された写真家・稲越巧一の写真集「E.YAZAWA SUPER PHOTO LIVE!」では自宅の中庭に巨大な「E.YAZAWA」の文字が刻印されたタイルが敷かれ、ガレージには愛車のポルシェとベンツが写っている。この矢沢の愛車の1台である「ベンツ450SE」は2年ほど前に、販売店のショーウィンドウに飾られていたのを見て一目惚れ。一発キャッシュで購入したものだ。
アスファルトに焼けた東京とは違い、緑に囲まれ夏でも涼しいこの場所は、目まぐるしく動く日々を忘れることのできた唯一の場所だった。

つい最近では、家の隣に矢沢の個人スタジオが完成した。40畳もの広いスペースにグランドピアノ、ミキシング・コンソール、巨大スピーカーを搭載したレコーディングルーム。
「俺は、やっとここまできた。来年からこのスタジオの中で俺のレコードが生まれる。贅沢な話さ。いくら使ったって絶対採算とれやしない。でもね、俺はゴルフやるわけじゃないし、クラブで飲み歩くわけじゃない。唯一の贅沢なんだ。ゆったりくつろげる場所で良い音を作る。そういう“ゆとり”がミュージシャンには必要なんだよ。」

そして、湖のほとりにある食堂でカレーライスを食べながら 「日本のロックはね、まだまだだよ。あと10年……。とことんやるしか、ないよ。」
昨年には社会現象とまで言えるほどの爆発的記録を次々と打ち立てた男は、冷静にそう答えた。

今年だって100本近いライヴをやるために全国を駆け回っていく。
どんなにCDが売れようが、讃えられようが矢沢がやることは一つも変わらない。
「時間よ止まれ」がヒットし、人気音楽番組『ザ・ベストテン』の出演オファーが矢沢のもとに届いた時もすぐに断った。
街から街へ…4トントラックと共に旅をして、ステージから己の全てを音で解き放つライヴこそが矢沢にとってバックボーンであり、生きる意味であった。

しかし、スーパースターが故の問題がライヴだけではなく、プライベートにまで及ぶことになる。
マスコミや週刊誌に自宅や周辺を取り上げられることによって、過激なファンが日夜関係なく押し寄せ、夜も眠れないほどに騒ぎ立てたり、矢沢が出てくるのを待っていたりする。
矢沢だけでなく、矢沢の家族全員までもこの騒動に巻き込まれ、求めていたはずの平穏な暮らしがいとも簡単に崩れ去ってしまった…

1980

決断。

「有名税。分かりきってる言葉なんだけれども、辛い言葉だね。」
NHKのトーク番組『若い広場』で矢沢は苦虫を噛みつぶしたような顔で語った。
自身の周りで起こっているファンの押しかけ騒動や、今まで自分が掲げてきた信念を余すことなくインタビュアーに伝えていく。
番組のスタッフが1年以上かけてテレビ嫌いの矢沢を説得し出演までこぎつけたのも、矢沢永吉のドキュメンタリー映画「RUN&RUN」が3月15日から全国劇場公開されることが決まっていたことも大きな要因だった。

「RUN&RUN」の撮影に向けてのアメリカ撮影はいきなりトラブルだらけだった。
成田空港からのサンフランシスコ行きの便は一人の若者がハイジャックを企て、そのあおりでテイク・オフが大幅に遅れる。サンフランシスコに到着したは良いが、矢沢を含めスタッフ全員の荷物と機材がニューヨークへ運ばれてしまった。
荷物が皆のもとに届いたのは翌日の午後だったため、撮影は夕方からとなった。
2週間のウエストコーストでの撮影は朝から晩までみっちり行われ、矢沢が唯一できた息抜きは現地の映画館で『地獄の黙示録』を観たことくらいだった。
撮影は滞りなく行われて、サンセット・ビーチでの夕陽を眺めながらアメリカ撮影の旅は終了した。
この、ドキュメンタリー映画は昨年行われた、全国ツアー「The One Night Show」の名古屋球場公演も収録され、映画館に足を運んだファンの中にはライヴさながら、劇場内でタオルを宙に投げる者もいた。

矢沢は後楽園スタジアム公演を成功させた頃から、ある壮大なストーリーを描いていた。そのストーリーを実現するために約6年間在籍していたCBS・ソニーとの契約を打ち切る決断をしたのだ。
超大物歌手のレコード会社移籍とあって、各レコード会社の争奪戦が始まった。東芝EMI、ワーナー・パイオニア、ビクターなどの大手レコード会社がこぞって手を挙げ、矢沢にコンタクトを掛け合ってくる。

3月1日、「ビッグな人間にはビッグなフィールドが必要だ」というキャッチコピーと共に、ワーナー・パイオニアへの移籍が発表された。
同日にはコカ・コーラのCMソングで新曲「THIS IS A SONG FOR COCA-COLA」がオンエアされた。
なぜワーナーへの移籍を選んだのか?それは前例のない莫大な契約金の他に、交渉時のある一言が矢沢の描いていたストーリーと合致したからだ。

「矢沢さん、アメリカでデビューしませんか?」

50 YEARS HISTORY

1975-80

「ソロデビュー」〜「スーパースター誕生」